「待つ」ということ

タンゴアジア選手権大会2019で
タカシ&メグミさんが 優勝しました
本人たちも 周りの方々も 日本のタンゴ界も
それを待っておりました
何年も前から 彼らの踊りは 素晴らしかった
何年も 前に 優勝しても 順当でした
順当でしたら 順当ということだけで みんなは待っていなかったでしょう
その 順当が 叶わぬ 苦しみ 葛藤 それを撃ち抜く歳月に費やした力
それを 周りの人たちも 知っているからこそ
彼らの 優勝を 待っていました
その歳月が 彼らの踊りを 身体を 心を
より 成熟した ハガネのような強さに 変えていったのを 知っていた
おめでとうございます

La Collezioneで行われた サヨナラミロンガで
優勝者タカシ&メグミさんのオナーダンスを見て そんな思いを持ち
ワタシは 鷲田清一さんの 著書「「待つ」ということ」を
思い出し そして 再読してみました
そこからの文章を 抜粋してみます

待たなくていい社会になった
待つことが できない社会になった

待ち遠しくて、待ちかまえて、待ち伏せて、待ちあぐねて
とうとう待ちぼうけ。
待ち焦がれ、待ちわびて、待ちかねて、待ちきれなくて、待ちくたびれて
待ち明かして、ついに待ちぼうけ。
待てど暮らせど、待ち人来らず、、、。
だれもが密かに隠しもってきたはずの
「待つ」という痛恨の想いも じんわりと漂白されつつある
(中略)
みみっちいほど せっかちになったのだろうか、、、、。
せっかちは、息せききって現在を駆り、
未来に向けて深い前傾姿勢をとっているようにみえて、
じつは未来を視野に入れていない。
未来というものの訪れを待ち受けるということがなく
いったん決めた枠内で一刻も早くその決着を見ようとする。
待つというより迎えにいくのだが 迎えようとしているのは未来ではない。
ちょっと前に決めたことの結末である
決めたときに視野になかったものは、最後まで視野に入らない。
頑なであり 不寛容である。
結果が出なければ すぐに別の人 別のやり方で、というわけだ。
「待たない社会」,そして「待てない社会」。
意のままにならないもの 、どうしようもないもの、
じっとしているしかないもの、
そういうものへの感受性を私たちはいつかなくしたのだろうか。
偶然を待つ、じぶんを超えたものにつきしたがうという心根を
いつか喪ったのだろうか。
時が満ちる、機が熟すのを待つ、
それはもうわたしたちにあたわぬことなあのか、、、、。

待つということにはどこか、
年齢を重ねてようやくといったところがありそうだ。
痛い想いをいっぱいして 、どうすることもできなくて、
時間が経つのをじっと息を殺して待って、
自分を空白にしてただ待って、
そしてようやくそれをときには忘れることができるようになってはじめて、
時が解決してくれたと言いうるようなことも起こって、
でもやはり 思っていたようにはならなくて、
それであらためて、独りではどうにもならないことと思い定めて、
何かにとはなく祈りながら何事にも期待をかけないようにする、
そんな情けない癖もしっかりついて、
でもじっと見るともなく見つづけることは放棄しないで、
そのうちじっと見ているだけのじぶんが哀れになって、瞼を伏せて、
やがてここにいるということじたいが苦痛になって、
それでもじぶんの存在を消すことができないで、、、、、、。
そんな想いを澱のようにため込むなかで、
人はようやっと待つことなく待つという姿勢を身につけるのかもしれない。
年輪とは そういうことかとおもう。

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