さよなら PULPO プルポが死んだ

悲しいことは  人生の上で  たくさん転がっている と 知っていた
その一つ一つを  なんとか  乗り越え  て  きたつもりだ
そして  ここにきて 今朝 また  悲しい知らせを  知った
プルポ が  亡くなった  と
Norberto El Pulpo Esbrez
そんな笑顔で  見つめないでくれよ  プルポ、いつ会ってもチャーミングな人だった

尊大で  傍若無人で  寂しがりやで  きちがいじみた  
この愛すべきダンサーと 知り合ったのはいつだっただろう
ロンドンのフェスティバルの後
2002年頃から  ブエノスアイレスのミロンガで  ワタシたちは デモをやり始めた
トラスティエンダで  やった時に  プルポと 一緒だったのを  覚えている
どういう経緯なのか忘れたが  その頃ベルグラーノ通りにあった彼のアパートに 行くようになった
気まぐれで  感情の起伏が激しく  わがままな プルポ
あの頃から 重症の 糖尿病で  体調の悪さで苦しんで いたと思う
でも どんなに 体調が悪くとも  彼のアパートの出入りは  自由だった
ヨーキチさんなどは  毎日 来て パソコンを使って  昼寝をしていく
と プルポと 当時のパートナーのルイサ  が  こぼしていた
そのヨーキチさんも  日本から  たこ焼き器を 持ち込み
プルポの アパートで  たこ焼きパーティを開き   みんなを喜ばせていた
気分屋なのだが  全てのことに  博識で 繊細で やさしかった
特に  料理 、音楽、映像には  天才的な  閃きを 持っていた
料理は  大きなキッチンに あらゆる大きさの鍋 食材が  どっさりあり
料理本  だけでなく  専門家が使う  農業辞典  まであった
映像 写真は  素晴らしい構図の  写真を たくさん見せてくれた
2007年の  自身が主催したPULPOS WEEK TANGO FESの映像は
クレーン2台で  そのフェスティバルの 模様を撮り
素晴らしい DVDを 作り上げた
が  大赤字だったと  ぼやいていた
本当に 凝ると  周りが見えなくなる  天才だった
彼の  独特の 足を絡める  ステップ
それを 練習するために  毎日彼の アパートへ行き
ああではないか  こうではないかと  何時間も やっていた
やる方はいいが  かけられるリリさんは  片足で 何時間も我慢させられるのだから
たまらなかったであろうなあ
パオロ・コンテの「REVERIES」という曲もプルポから教えてもらい
セルビアでも ブエノスアイレスでも タンゴの曲ではないのだが 踊った
この曲で  超満員の  ラ・ナショナルでデモをやった時に
プルポがいたので、彼のステップを満載に入れて踊ったら  大喜びだった
ケンジ  日本に 呼んでくれよ   と  言ってきた
ウワアアア  こんな気まぐれで  わがままなヤツを日本に呼んだら  大変だなあ
プルポだけでなく  当時の??アルゼンチンのダンサーの わがままぶりは
ロンドンや  その他の  フェスティバルで  知っていた
ロンドンのスタッフは
「ケンジとリリアナを見るとホッとするよ。だって彼らのようにわがままを言わないから!!」と
そんなアルゼンチンのダンサーたちも  恐れるプルポなのだから
日本へ 呼んだら  大変なことになるなあ 
 
しかし 呼ぶのであれば  ただのワークショップで 教えるだけではつまらないから
トリオ・ロス・ファンダンゴスの「タンゴの節句」に 参加させよう
毒をもって  毒を制す    で  ある
そして2006年の  タンゴの節句  に  来日した
この来日が  また 大変で
パートナーの ルイサが ブラジル国籍のため  なかなか ビザが取れない
その頃?今もかもしれないが  外務省はブラジル人の ビザを なかなか出さなかった
その都度  あの書類がいる  この書類がいる と
はては  ワタシの  預金証明と   納税証明書まで  送ることに
なんやかんやで   来日し  タンゴの節句へ
九州のホテルでは  朝カラスがうるさくて眠れない
ケンジ散歩に行こうと  朝の6:30から  小倉城を散歩したり
ショーの最中 ルイサと喧嘩して(もちろんお客様にはわからないようにだが)
もう踊らない  やめる  と言い出したので
「だったら  やめろ!あとは僕とリリアナでやるから とっとと帰れ!」と一喝したり
すごく濃い  タンゴの節句  になりました
日本食を食べて ご機嫌になったり
ノボリや  提灯を買い占めて ご機嫌になったり
韓国焼肉は  大嫌いだと  不機嫌になったり
でも 楽しかったよ  
ワタシたちにとっても ファンダンゴスにとっても  いい想い出になった

その後彼が主催したブエノスアイレスのフェスティバルで 私たちも踊った
そのフェスティバルは  プルポが選んだ 素晴らしい 若いダンサーたちを 育て上げた
そして 古いタンゲーロたちにも 脚光が浴びるような演出で 尊敬の念を示した
腹の中で  小声で ボルード と言いながら
しかし 公私一緒にやっていて  全てのマネージメントを キッチリやっていたルイサと別れてしまった
あの天才は  ルイサのサポートがあって  生きたものだったと思う
天才であるがゆえに  その    ままにならない生き方だったのか
ここ数年は 肝臓病の手術をしたり
ブエノス

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